名倉直賢(なぐらなおまさ)についてー整骨院・接骨院の歴史
名倉家は、名倉重直(1668年から1712年)が千住に移り住み、
その4代後の名倉弥次兵衛直賢(なおまさ)(1750年から1828年)が、
骨接ぎを始めました。
有名になったのは、7代目の弥一の頃からと言われ、最盛期の大正時代には1日の患者が300人から500人おり、夜が明けると旧道は骨折や脱臼の患者が戸板や籠の行列で埋まったと言われています。
明治7年(1874年)、同16年に「医制」が制定された後も家業の伝統を受け継ぎ、
整形外科医院(名倉クリニック)として今も続いています。
「名倉姓譜小考稿」によると、直賢は寛延3年(1750)に生まれた。
武術は楊心流剣術、柔術を木村甫に学び、武備心流体術の附法、骨傷科の伝を川寸木(朴)昂翁に計り、その術を研究し「接骨術」を習得した。
明和年間(1764〜1772)に千住の地で接骨業を創業。
直賢は名倉の接骨術を後継者に授け、文政11年(1828)7月4日、79才にて永眠。
辞世の句「散ことの心やすさよ蓮の華」を残している。
千住宿は、江戸日本橋から2里8丁(約10km)の距離にあり、
江戸四宿一の人口を有していたため単なる宿場ではなく、
さまざまな商工業者が生活の拠点を持つ場でもあり、
一般庶民が江戸を旅立つと日光道中で最初の宿場町となる。
旅人の家族、知人は千住宿まで送り、茶屋等で酒等を呑んで出かける。
又帰りも迎えに来るなどで江戸から出る人、帰る人を送迎する場所として常々賑わった。
名倉家はその千住宿の北端で接骨業を営んでいた。
江戸時代、庶民文化の川柳にも名倉の名が出ている。
「どぶ板で名倉れましたと駕篭で来る」
「名倉の子凧の骨から継ぎ習い」
「張り上げる凧に骨折る名倉の子」
「ひょんな怪我名倉に黒ん坊にされ」
「此の松を名倉にやれと雪の朝」
「見所ある名倉の弟子の骨惜しみ」
名倉流では黒松の炭の粉の湿布を使います。
黒い湿布なので、湿布痕が黒くなります。
私も修業時代は毎日朝昼2回、湿布を作るために鍋を煮ました。
名倉直賢は当時の一般庶民が安心して頼れる医者が少なかった時代、
武術を通じ接骨業を習得し創業、一部の人の為の医療ではなく庶民の医者として受け入れられた。
権威ある医者としてではなく、職人気質的な町医者・専門医として千住という人口も多く、
人が集まり流れる宿場町で名声を得て、広げていった。
名倉の技法は特別なものというよりも患者の要望に応えるという当たり前の事と思える。
名倉流は整骨図や文書では残されてはいないが、
庶民文化である川柳等に名を残しています。
これは庶民の中に溶け込み、愛されてきたという事でしょう。
二百数十年という時を経て、新しい技術を取り入れ、
患者の要望に応え、形を変えながら名倉流整骨は今も生きつづけています。
医学の知識や技術は時代と共に変化をし、
私が修行した技術も今では使う事のないものが沢山あります。
しかし、
「地域の方が困った時に、安心して気軽にかかれる保健室のような場所」
という名倉の接骨の心は伝え残っていくでしょう。
参考文献
鏡雅之:日本柔道整復接骨医学会誌4巻4号1996年シンポジウム
あだち観光ネットhttp://adachikanko.net/midokoro/archives/28